まばたきをする体

肯定的な瞬間への信仰にも近い思い

そうだ、会社に行くんだ。山ですごした休暇が終わり、私たちは今日からまた現世をやる。

子どもらのお弁当を作った。水筒も用意した。早起きの私と息子が先に食事をして、娘はゆっくり起きてきたが一番に出発するのは娘だ。

無駄なくさっさと準備してすっと出かけていった。娘は頭になにか考えていただろうか。無のような出かけ方でクールだった。息子と私もそれぞれに散った。

昼やすみに同僚とご飯。外に昼を食べに出るのが久しぶりだったのではりきってワーワーたくさんしゃべった。終えて帰ったころにワーワーしたな! という充実感があるほどだった。信頼する人と頭を使わずに適当におしゃべりするのが楽しい。

午後は会議に出て帰る。暑い。

今年はコガネムシが道でよく死んでいる。手に小さな扇風機を持っている人がとても多い。

家で子どもたちと集合、今日はこれから私がでかけるので夜は妹の家で過ごしてもらうことになっている。妹の家に行く道中、娘が額に汗をたくさんかいていて心配になりポカリスエットを買って渡した。

心配なときに放っておかずに「なんかやる」ということが、ずいぶんできるようになった。「大丈夫かな…」と思うだけとか「大丈夫だろ」と思い込んで何もしないで内心不安で落ち着かない、ということがこれまでよくあった。

おもんばかってポカリスエットを買って渡すだけのことも、できるようにならないとできないのだと思う。

子どもたちを送り、代官山の蔦屋へ。岸政彦さんと町屋良平さんのトークイベントを観に来た。

楽しみすぎて興奮して始まる前にファミリーマートで焼き鳥を食べた。

司会も不在のなかお二人が90分次から次へとお互いの作品や創作について超重要なことをずっとしゃべり続ける会だった。作家さんのトークイベントというのはあちこちで行われているもののようだが、こんなことになっているのか。

町屋さんの作品は身体性をテクニカルに表現しているところがいいという話になり、小説のような媒体において表現がロジカルであるということはすごく良心的で真摯なことなんじゃないかと感じた。

テクニカルに身体について明文化することは、伝わりやすく分かりやすく説明することとは違う、善良な(善良とは違うか、優しさ?)態度そのもののように思う。

岸さんの作品については、ただ肯定すること、肯定的な瞬間への信仰にも近い思いがある、という話が出て、それはいわゆる赦しとはそもそもの視点が別なんだなと思った。

救いがある(ない)、という言葉がある。岸さんの「図書室」を読んでいるとちょいちょい「救いがある」。けれどそれは、いわゆるよくある「救いがある」様子とは違うようだぞと読みながら感じていて、たぶん、かわいそうだから、とか、これじゃあんまりだから救っておこうというのではなく、状態を肯定しようという意図だからなのかなと思った。

町屋さんの、ふわっとしたものごとの言語化を自らに課しているようなお話ぶりがかっこよかった。岸さんは、最後会場からの質問で「岸さんが大好きなんです」と言った方にかなりでかい声で「ありがとう!」とお礼を言ったのが最高で私はつい吹きだしてしまった。

鼻息も荒く帰宅、家には誰もいない。

クーラーの風が直撃する場所にある息子のベッドにヤー! と横になってクーラーのスイッチを入れたらいきなり寒かった。

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イベント:2019/08/25(日) COMITIA129 「まばたきをする体」Q01a
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